昭和51年6月30日  朝の御理解
                          岡村あい


御理解第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」

 ご神訓に、信心してみかげのあるを不思議とはいうまじきものぞ。信心してみかげのなき時は、これぞ不思議なることぞ。とあります。信心をさせてもろうて、おかげを受けるということ。「?」を受けるということ。そこから、私は心が神に向かい、心が皆もこの通りのおかげが受けられるという心の中に、神が生まれるという信心に精進させて頂こうという、また、頂かなければならんというような、確信が生まれて来るんだと思います。 何もないところに、神になろう、なろうと言うて、もうとにかく雲をつかむようないわばことになりましょう。
 けれども本当に自分が神様に一心を向ければ、必ず霊験が受けられる。もし霊験が起きられないならば、それぞ不思議なることだ。これ、それこそ不思議なことだと自分の心のいうならば、神様への向けぐあいというものを間違いを悟らせてもろうてね、おかげは絶対のものとして、進んでいく。その、私どもがその生神を目指すと、または、みんなもそんなおかげが受けられると教えておられますので、まぁ本当にそういう生神さまになる稽古ばしようというようなことで出来ることではないね。
 なるほど神様じゃなと。なるほど自分の心を神様に向ければおかげが受けられるんだなと。受けられん時には、これはまだ信心が足りんのだ。そこに、一つのいちだい不思議を感じて、自分の心の上に改まることに精進することの、精進ぶりというものを改まっていくと。そこに、私は生神へむかって、段々精進していくね。だからその基礎、基本になるものは私はおかげだと霊験だと。本当に信心をさせて頂かなければ分からない世界、いうなら不思議な世界。そしてそこにもし、不思議が生まれないならば、不思議という霊験ですね。霊験が生まれないならば、もうそれこそ不思議なことだともう絶対のものとして教えておられますから、私どもは、その絶対のもの。おかげが受けられんのは、神様が悪いのじゃない。お取次ぎしてくださる先生が悪いのじゃない。自分自身がこれは足りんのだと。もう絶対なものとして、神様を頂くところにです、神様にいうなら、一歩一歩打ち向かう姿が、生神へむかっての精進だと思います。

 昨日は、敬親会でした。このごろも敬親会は大変このごろ、ご理解の研修がここで毎日やります、何の会合の時でも、ここに修行生の方たちが一緒に参加いたしましてから、自分たちのご理解の研修を発表いたしますので、敬親会でもそのもう勉強の姿勢を作らなければできない。今までは、まぁいうなら、信心話やらお茶話やら分からんような感じ。だからもう早めにばっとお茶を頂いて、お茶菓子がいっぱい、なら「 ? 」おりますから、お茶だしもバタバタ食べてそして早く片付けなきゃお話ができんからと言うので、もう後は、もうそれこそその信心の稽古の姿勢をみんなが作るわけです。
 あっちった、気のどくな中には、もう居眠りがでてくるおばさんたちもやっぱあるわけですね。けれども、居眠りしながらでもやっぱしこれはもう勉強だからとにかくあの良薬を口ににがした、昔から言うある。だから、苦いことは苦いけれども、それが薬になるのだ。ちった難しいけれども、眠気のつごたる話だけれども、そういう話しは本気で頂くとおかげが頂かれる。「 ? 」と言うた私が、励ましながら話しを進めるわけなんです。 それでもう、祈願詞なんかもあの、全部祈願詞の説明やら祈願詞をみんなであの奏上いたします。で、これも今度は西岡先生「?」もうちょっと大きく書いてもらわにゃ分からんぐらいような、ならこれからみなさんにあの大きく書いたとを、書いてあげましょう。「  ?   」そういうふうに、勉強しようということに心を向けてこられた。いうなら、今までのその例えば、会合とだいぶん内容が変わって、本当に年寄りながらもやはり研修という姿勢を正す。そしてまた、みんなのその研修がまた「 ? 」難しいわけですね。けれどもその分かる人達がね、分かる人たちが神様を研究するというようなことにこれだけ熱心であるということには、皆さんやっぱり「?」感じですね。
 こんな若い自分から信心の本当けいこするならやっぱ、素晴らしか。いうならば、やはり生神様へならせて頂くことを目指しとしてのいうなら、姿勢というものをその見られるわけ。聞かれるわけですね。それから、まぁ次々一人ひとり体験をあの聞かせて頂いたんですけど。中にその、椛目の宮崎さんが、宮崎のおばあちゃんが発表を始められましたけれども、とうとうあのお話がお話になりませんでした。声にならなかったです。私は本当に、この神様ばっかりはもう本当に条件には合わんごたるおかげが頂かれると言われたら、後はものはでらなかったね。そしてもうとにかく、神様の言われることのいわゆるまぁ神様のお告げと言われる。神様のお告げを本当にまぁおそれいったという話を、だから息子たち夫婦が一生懸命お参りをする、親先生がこぉおしゃった。ああおしゃったということをそのままおばあちゃんこういう大変な心配のことだけれども、親先生がこぉおっしゃるから心配しなさんなというふうに、まぁ毎日聞かれるわけでしょう。そしてその神様のお告げがあまりにも素晴らしくて、てっかくであるから、もういよいよその神様のおっしゃることどん右左にしちゃならんと言うて、いうようなことをまぁ言われたんですけれども、話の本筋には、もうふれられなかったんです。という感動して、声になってでなかったんですね。そういう私はいうならば、間違いない一つの霊験とね、というものがです、やはり基礎になり、しかもあいううち向かい方をしていくところになら、宮崎さんたち夫婦がです、神に向かうということは生神への精進と言われるが、確かに、生神への精進であり、そういう問題をいうならば、いってん難儀であるということであっても、それは生神への精進の手がかりでしかないということをね、悟っていくというところに信心があるのです。
 してみると、信心が楽しいことになってくるですね。だから目指すところは、このならご理解18節、此方のことを、神、神というけれども、みんなもそのとおりにおかげが受けられるんだと。生神とは和賀心に神が生まれるということであってと、おおせられるようにね、神を信じる喜び。神様を信ずることから生まれる安心、安らぎ。神様の仰せに間違いないということが信じれれるね。そして、例えばなら一月間なら一月間本気で心を神様にむけての精進がです、このようにまで心が進むものかということがね、それが生神へ向かって進んでいるんだという、言うならば、悟りなんです。だからここに悟りが開けなかったらです、また次の難儀がですね、またこげなん難儀な目にあわなんことになるね。けしてお天気の日ばっかりは続かんのです。雨の日もありゃ、風の日もあるのですから、その雨やら風やらがまた一段と生神へ精進させてもらう手がかりなんだと分かるときに、そのことに対するいわゆるはいざんの姿勢がとられるわけです。山を拝むという姿勢がとられるわけなんです。 昨夜私御祈念にでて、それからまた、下がらせて頂いてまた夜中に、ちょっと心にかかることが、2,3ございましたから、なんかすっきりしませんからこちらへ出てまいりましたら、まだ、そこにも壮年会のいろんな準備のこと、それからしおりができます。そういうようなことがまだ、秋永先生をはじめ、秋永先生の兄弟三人。それに麻生さん、戎浦さん。それと光昭とまだ一生懸命いろんなその準備のためのなんかをしておりました。一通りちょっとこぉのぞきましたけど、まだ「?」で終わるふうじゃなかったですから、休ませて頂いたんですけれども。本当に一つのことがなされるためには、しかもあのそのことでは毎日ですからね、その御用なさっておられる方たちは。
 それで私昨日高橋さんに、そういうようなあのみんなも、印刷やはどうだろうですかと。ところが、2万5千円もかかるっち。それだけつくるのに小さいしおりを。だからこれはもうめいめいでやろうというので、そういう準備をしておられました。本当にみんながおかげを頂くことのための一つのしたごしらえといったようなもの、それがまたしたごしらえのというのは、神様がそういう働きを起こしてくださるわけですけれども。結局、「?」申しますと、みんながおかげを言わばまず知るために、まずおかげを頂くことのためにね、次には、この御理解18節みんなが生神を目指すといったようなこんな信心姿勢をむけるということになってくるときに、もう難儀はないということになる。生神へ向かうと言う事。難儀はない。それは生神へのてがかりだという頂き方になってくるからです。私は金光教の信者は全部そうならにゃいけないということのためにですからね。
 昨日、私ちょとこの申し込んであるのを見せて頂いたら、出すやらださんやらあった当然出てこなければならないひとたちが申し込んでいなかったです。まぁ思いもかけない方たちが申し込んでおられた。本当にあんた、百名ちょっとこしたぐらいのひとたちの申し込みがあっておりますからね。
 それで今私が言う、この人どんどうもおかげを頂いているし、こういう会合にしゃっちでらにゃならんという人たちがまだ一個も申し込んでいないというのがあるんです。今から申し込むかもしれんけれども、そのけっきょく一段上といったような姿勢ができていないからなんですね。
 私はこれはもう本当に金光様のご信心はね、この18節のところを頂くことのために、言うならば、いわゆる天地書附がでてくるわけですけれども。その教えのすべてがね、そう生神を目指すことのための教えであると私は思います。でないと、いつまでも難儀は難儀と感じなければなりませんね。で、それから私御祈念に入らせていただいて、そのご神前に出ましてから、出ましたとたんに頂いたんです。もう先御祈念をもう長々とさせていただいておりましたから、またこれも心がすっきりするまでは、それこそ、「   ?   」座ってから、すきっとするまでと思ってたら、座ったとたんに頂くのが、あの、よどひくというのがありますね。今咲いています。よどひくというのは、あれはあの、私はあれは、えどひっかと思いよったら、よどひくですね。さんずいへんに定めると書いてありますね。よどという字は。もう頂きましたから、もうすぐお礼をして下がらせてもうそれを頂いただけで心がスキットしたからなんですね。
 さんずいというのは、これはもう自然の働きということ。または、お水、お恵みということですね。お恵み、おかげはもう定まっているんだと。ちくというのは、これはもう合楽の信心ですね、私が2,3、心にかかるということもです、かかっておったこともです、それはなら、私が思うようにはならんかもしれませんね。私が例えばなら、心配しておるようなことになるかも知れませんけれども、その心配しているようなことになったところで、それはもうもう定まったお恵みだと頂いたときに、私の心は安らいでくる。安心が生まれてきているね。右になるがよか。左になるがよか。はあこれはほんに、大変なことだねだいたいはと思うところに、心にひっかかるものがあるわけです。
 例えばね、おかげになるよということはね、自分の思うようになるということではけしてないです。私は本当にご神前に出てからとたんにだから、とたんにまた拍手打って、下がらせて頂いた。心にかかっておったことは、はあ、あれが右どんなるならどうするじゃろうが。左どんなるならば、また困ったことになるなというようなかしかな思いがです、心にかける。けれども、神様からおかげになると頂いた。さんずいへんに定まっている。お恵みはもう決まっている。そのなら、おかげがおかげと決まっておるということは私が、思う以上のおかげになるということでもなければね、願い通りのおかげになるという意味でのことでもない。思い以下かもしれない、思いの反対になるかもしれないね。けれども、それがおかげなのだと分からせていただくときにですね、心がすっきりするわけです。いわゆる今日のご理解じゃないけれども、生神へそれが向かうことのための手がかり、足がかりになるんだと分かる時に私の心は平生心を取り戻すことができるのです。そのためには、やはりこの18節のところがです、私どもは生神様を目指しているんだと。ならその根本になるのは、なら昨日宮崎のおばあちゃんがね、長年の信心をさせて頂いている今度ほど神様の間違いなさ。いや、もう毎日毎日のお告げの間違いない中にです、感動して、お話がお話にならなかったようなおかげを受けられて、ならそういうおかげが受けられると分かるのではなくてね、それがなら宮崎さんたち今度は夫婦になってまいりますとです、一月の間によい修行させていただいてありがたかった。自分の心がこのようにも進んだ。それは神へ向かって一歩前進したんだと分かられるね。そこに一つの悟りが開けてくる。はさ神様の神愛ということを言われるが、一切が神愛だなと。一切が神へ向かって、私どもの心が進ませてもらえるための神様のご都合以外にないんだと分からせていただくときに、なら次の雨もまた風もですね、それこそたのしゅうありがたく、はいざんで受けていかれるわけですね。
 神へ向こうて進んでいくということがすばらしいのですからね。そういう私どもが心がけにならせていただくときに、一番喜んでくださるのは教祖様だと思いますね。昨日、北野の中村さんが出て来ておられましたが、もういつもにないそのあちらは、ここ、いっときばっかり合楽にご無礼されると、心がこぉ荒れるなさるわけです。そしてもう私のようなもでも、こんなもう、その先生は私のこと言いなさるばってんからち言うふうなことを平気で言われるわけです。というぐらいに、心やすい中と言いや、心安い中であります。ところが昨日はもう初めから言われることがです、本当にこのごろはお参りも出来ませんと。けれども、私がね、生神金光大神様親先生と唱えると、遠きも近くも、遠くも近くもなきものぞというのが響いてくるそうです。心の中に。合楽に参って拝んでも、ここから北野から拝んでもです、もうありありと親先生が生神金光大神様がここに表れてくださる。そこでいろんな願いごとをすると心がとてもこのごろ安らぐと。しかしほんに、やっぱ修行はしとかなきゃならんのうっち言うてから話したことです。もう私はここまでの信心ね。私は本当にこのごろめがね今、かけなさっておられる、こっちが目がこわれておりますもん。こげなん見苦しいもんばはめちから、かえんのうっち私が言うたら、もうこっちはどうせ先生見えんとですけど、「?」よかって。そげんなことでは見ぐるしか。だけん、がらすでよかけんで、かえにゃ見ぐるしかばいっち私が言うてね。だからあんたがいっきにそげんやって「?」しまう。昨日竹葉会に、なかがわけんざいの社長が見えました。あちらはちょうど昨日がその日がもう80歳。そしてとにかくあの竹葉会に語られましたけれども、そげん「   ?     」。どげん考えたちゃ80ぐらい。先日の東京で、○○大神とおうてきたと。もう飛行機で来るから。それこそもうあのきっすい、きっすいの「?」かざりしたごたるふうで、とてもまだつやつやしておりなさるもんね。そしてその竹葉会の方々に言われるのはです、私はこげん若こうして、元気でなら東京までにもういつも日帰り行ったり来たりさせて頂くようなおかげを頂いているということはね、これは信心の喜びを心の中に持っているからですよ。不平不足を言わんからですよ。そして私の方のあの「?」を一緒にのせますね。それとはそのセメント砂とせんばたくさんいれにゃんとば、少ししかいれん。どげんでもごまかせれるそうです。ところが私のほうは、私の精神をみんなが対ししてくれて、こう絶対先日からは、思いもない金があるところから送ってきたっち。それは黙ってもらおう時は、もらとってよかごたるけれども、もう私はこういうことを昔から絶対はっきりしなきゃでけんとですから、かえさんならかえさんでよかようなでしたけれども、きちっとまぁさせて頂いた。それが私がこの若さのまぁ言うならば秘訣だという意味のことをね、あの話しておられましたが。でその話をまぁ中村さんに聞いてもらうというても、みなさんのおばあちゃん達に聞いて頂いたんですけれどもね。
 ようも、あの何と言うんですか、そのこうして信心の継承をするということはね、ただ聞くだけではない。その頭をちっと使わなきゃいけん。今まではただお茶飲み話しだけでもよかったけれども、こうやって研修の形をとらせてもらうとですね、すこしやはり頭を使わにゃならん。そこにいわゆるね、恍惚の人というような言葉がこのごろ流行りますがね、いわゆるこれを言うならば、もう年をとってぼうけるというようなね、恍惚の人にならんですむ、頭をいわば使うということです、だから言うならばあなたがたは、信心の若い方たちの研修と一緒にまじって、しかもこれから祈願しの一つも覚えさせてもらおうというような心を使わせて頂くということは、ぼうけんですむおかげが頂かれるよと言うて話したことでした。
 ですから言うならその自分の心が頭がですね、こぉそれに使われるというところに、言うならば若さを保つこともできましょうと同時にです、生神へ向かうということもそうですね。ただ、金光様のご信心はね、有り難くなる稽古だからありがとうさえなりゃいい、確かにそうなんですけれども、有り難くなるためには、一つの道理が分からにゃいけん、勉強しにゃいけん。そしてこれが悟りであろうかという悟りが開けてこないけん。理解力ができなきゃいけんね。そこから、今日皆さんに聞いて頂いた18節ね。次々といつまでこんな難儀をせなんじゃろうかじゃなくてです、その難儀こそが生神への手がかりであると分からせてもらう時に、それをいよいよ山拝。拝んで受けていくという姿勢がとられてきます。自分の心は嫌がうえにも神様へ向かって進んでいくということができるのです。信心してみかげのあるを不思議とはいうまじきものぞ。信心してみかげのなき時は、これぞ不思議なることぞという御神訓を私は今日は土台にしてこの18節を聞いて頂きました。ありがとうございました。